同台経済懇話会

  1. ホーム
  2. 同台経済懇話会の事業:パール博士顕彰碑建立事業

同台経済懇話会の事業

パール博士顕彰碑建立事業

 インド独立五十周年を祝し、同台経済懇話会が発起人代表となって建設を進めてきたパール博士顕彰碑が、平成9年11月20日、清澄の京都東山霊山の聖地に完成。その除幕式と完成記念式典が駐日インド大使、日本政府代表はじめ全国から三百余名参列のもと厳粛盛大に挙行された。また除幕のためインド・カルカッタからパール博士のご長男夫妻が来日した。
 式典でのインド大統領と駐日シン大使の祝辞はパール博士が極東国際軍事裁判において法の真理を守り世界の平和を訴えて反対判決を出された勇気と功績を讃え、今も日印外交親善のシンポルであると声明された。
 このパール博士の遺徳を後世に伝える壮麗な碑が、半世紀を経た今日なお東京裁判史観から脱却できないでいる日本人へ正しい歴史を認識し、祖国への愛と誇りを恢復するための礎となることを切に祈念して止まない。

ラダ・ビノード・パール博士顕彰碑 ―京都東山霊山『昭和の杜』―

祝インド独立五十周年 日印友好促進記念事業『パール博士顕彰碑建立』趣意書

ラダ・ビノード・パール博士

 平成9年は、インドが独立して満五十周年を迎えました。古来、日本とインドとは、宗教、文物の交流により親しく結ばれてまいりましたが、独立後はアジアの友邦として一層友誼と協力関係を深めて今日に到っております。特に最近は、産業、技術面での相互協力・提携の事業が一段と活発化し、また宗教、学術面での交流も更に深められつつあり、両国の友好協力は、アジアの安定と世界の平和の上で極めて重要なものとなっております。
 今日、この両国の友好的な関係を思うとき、私どもは両国の外交的・精神的連携の基盤をつくられた、極東国際軍事裁判におけるインド代表の判事、ラダ・ビノード・パール博士の遺徳を忘れることはできません。
 博士は連合国側の判事でありながら、堂々とその裁判の違法性を訴え、法の真理に基づいて被告全員の無罪を主張、判決されました。この法の正義を守る勇気と、アジアを愛し、正しい世界の発展を希った哲理と歴史観とは、崇仰措く能わざるところでございます。またこの判決の法理と精神とは、その後のインド政府の対日政策の基調となっております。
 パール博士は、裁判終了後、国連の国際法委員会委員長として活躍されました。また日本にも度々来られて、日本国民が東京裁判史観により自虐的卑屈にならないよう、激励の講演の旅を続けられました。博士はインドにおいては最高栄誉章を、日本からは勲一等瑞宝章を受けておられます。
 博士は日本の中でも、講演などでよく立ち寄った京都の地をこよなく愛され、生前ご子息に『京都に骨を埋めたい』とまで語っておられたとのことです。このことはカルカッタで弁護士として活躍されているご子息のプロサント・パール氏を訪問した日本記者のレポートとなり、平成7年1月7日、中日新聞・東京新聞の第一面に大きく報道されました。
 この時以来、パール博士を偲び、その遺徳を讃えようという熱望が、全国の各界人から寄せられるようになりました。
 インド独立五十周年を祝い、両国の発展と、友好の促進を祈念するにあたり、その記念の事業として、ラダ・ビノード・パール博士の御遺志に添い、また全国各界人士の熱望に応えて、その顕影碑を京都に建立し、その御芳徳を将来に伝え残すことは、両国民にとり一層の親善を深める尊い象徴となるものと存じます。そしてまたアジアを愛し、真の世界平和を希う日本人の心のいしぷみにもなるものと信じます。
 幸い、元京都府知事、現参議院議員林田先生の御高見と、京都霊山護国神社木村宮司の御芳志により、東山の景勝地にある京都霊山護国神社の一角『昭和の杜』に、その建立の地を定めることになりました。
 この場所は、数多くの幕末維新の志士が眠る聖地の下方にあり、霊山歴史館の正面の丘の上にあります。一般市民のみならず、来日されるインドの方々にも、輿味深く楽しく訪れていただけるところであります。京都に新しく、日本とインド、日本とアジアの架け橋となるシシボルが生まれることになるわけでございます。
 碑の建設については、この趣意と聖地に相応しい規構デザインにより、既に準備にとりかかっておりますが、現在日本の高度の技術と共に、建設される国民有志のこころをとどめるのに相応しいものになるものと存じます。薙にこの顕彰碑建設事業の趣旨をご理解いただき、日本とインド両国の将来のために、格別の御高志・御芳情を賜らんことをお願い申し上げる次第です。

〔建設場所〕
京都市東山区霊山 京都霊山護国神社内『昭和の杜』
〔設  計〕
白川建築設計事務所
佐藤総合計画
〔建設日程〕
1997年11月上旬迄に完成を目指し、下旬に除幕式挙行を予定致します。
パール博士顕彰碑建立委員会
  • 委員長瀬島 龍三
  • 副委員長山口 信夫(旭化成会長)
  • 副委員長木村 幹彦(京都霊山護国神社宮司)
  • 副委員長野地 二見(同台経兼事務総長済懇話会常任幹事)
  • 顧問林田 悠紀夫(参議院議員・元京都府知事)
  •  荒巻 禎一(京都府知事)
  •  桝本 頼兼(京都市長)
  •  塚本幸一(ワコール会長・(財)霊山顕彰会理事長)
  •  稲盛 和夫(京都商工会議所会頭・京セラ会長)
  •  松村 了昌(浄土真宗本願寺派総長)
  •  山本 卓眞(富士通会長・同台経済懇話会代表幹事)
  •  清瀬 信次郎(亜細亜大学教授・清瀬一郎先生御子息)
  •  小堀桂一郎(東大名誉教授・明星大学教授)
  •  加瀬俊一(日印親善協会会長)
  •  田中 正明(評論家・「パール博士日本無罪論」著者)

-順不同-

パール博士顕彰碑建立委員会事務局
事務局長 廣瀬 秀雄 (同台経済懇話会パール事業事務局長)

パール博士の遺徳を永遠に伝えたい 除幕式主催者挨拶
 パール博士顕彰碑建立委員会 委員長 瀬島 龍三

委員長 瀬島 龍三

 インド独立五十周年の記念すべき錦秋。
 駐日インド大使シン閣下・高村外務政務次官・林田参議院議員・京都府知事・京都市長、ならぴに政官財の全国の有志の皆様方ご列席のもと、ここ京都東山の聖地に、インドが世界に誇る国際法学者ラダ・ビノード・パール博士の碑の完成をお祝いすることができますことは、まことによろこぴと感動に耐えないところでございます。
 御高承の通り、パール博士は、極東国際軍事裁判において、インド代表判事の任にありましたが、法の真理と歴史的事実に基づき、この裁判の違法性と、日本側被告全員の無罪とを、自らの判決とされました。またこの裁判による占領政策により、日本国民が自国に対する誇りを失い、自虐的・退廃的になることを危倶され、その後要職にありながらも、度々日本を訪れて私共を激励して下さったのであります。それにも拘わらず、戦後半世紀を経た今日、日本国民がいまだに祖国の文化・と歴史に対する真の誇りを恢復することができずにおりますことは、甚だ残念なことであります。
 しかしながら、私共発起人が、日本とインドの友好と友誼を一層深め、またパール博士の遺徳を後世に伝えようとの思いを表明しましたところ、地元参議院議員林田様と霊山護国神社木村宮司様の御高志により、このまたとない霊地に碑建設の場所のご提供をいただきました。またこのことを伝え聞いて、全国の百数十の法人団体と二千名になんなんとする有志から熱誠溢れる協賛の御芳志が寄せられました。まことに感慨深いものがあり、厚く御礼を申し上げる次第でございます。
 ここに私共は、世界の真の平和と、アジアの友好、そして自らの国への誇りと愛の尊さを教えられたパール博士の遺徳を永遠に伝えると共に、自らの国の歴史と文化を大事にして、国際社会に貢献してゆくことを、碑前にお誓い申し上げたいと存じます。
 本日の除幕式には、インド・カルカッタからパール博士のご長男 プロサント・クマール・パール氏ご夫妻においでいただき、心から厚く御礼とお慶ぴを申し上げる次第でございます。

東京裁判におけるパール博士の真相 パール博士顕彰碑建立を畢えて

(1)建設に当たっての各方面からのご芳志ご協力に感謝

 同台経済懇話会が発起人代表となり3年の歳月をかけて取り組んできた、インドの哲人ラダ・ピノード・パール博士の遺徳を後世に伝える碑は、インド独立50周年の記念すべき年の錦秋、京都東山霊山の聖地「昭和の杜」に完成いたしました。この事業に関しましては、会員の皆様方はじめ、2千名に垂んとする全国からの有志、120社に及ぷ企業・団体などから熱誠溢れるご支援とご協賛をいただきました。特に本会員の主要企業から高額のご奉賛が募金成就の基となりました。併せて謹んで感謝とお礼を申し上げたいと存じます。
 京都の最も秀れた景勝の地に、しかも誰もが参観拝礼できる場所に設置することができたのは、元京都府知事で現参議院議員の林田悠紀夫様のご高志とご炯眼、そしてこころよく土地を提供していただいた京都霊山護国神社の木村宮司のご芳情の賜であります。
 また『パール博士の日本無罪論一を講和条約発効と同時に刊行し、その後もパール博士の遺徳を世に伝えるために盡瘁しておられる田中正明先生はじめ、東京裁判に関する歴史的検証のために力を振るわれている小堀桂一郎教授、清瀬信次郎教授など学界の先生方の学術的精神的ご支援が大きかったことも感謝の念を込めて記しておきたいと存じます。
 京都の地元のご協力についても感謝に耐えないところであり、特に若い商工会の有志(日本歴史修正協議会など)によるバックアップや式典当日の奉仕は、感動的なものでありました。その上、大林組、大塚オーミ陶業、関ケ原石材、三重工業、湘南オートメーションなどの建設業者には、技術の粋を尽くし採算を度外視してご協力いただきました。
 この碑の建設がこのように全国の各層からの多数の支持と奉賛によって完成されたことは、平成の今日、日本人の中にパール博士を尊敬しその偉業を讃える心が広く潜在していたことを示すものであり、このこと自体も歴史的事実として語り継ぐべきものであろう と存じます。

(2)パール博士は今もインドにおいて尊崇され日印友好の基軸となっている

 この度の碑の完成を祝った式典において、インド大統領ナラヤナン閣下が特に寄せられたメッセージと、駐日インド大使シン閣下の祝辞とは、まことに感動的でありかつ驚くべく外交的な声明でありました。両メッセージは、パール博士の極東国際軍事裁判における反対判決に対し、現在のインド政府の認識と評価を日本国民に示し、インドが世界に誇るこの学者に尊崇の念を持ち続けていることを鮮明にされました。また、その判決と精神は、独立したインドの対日外交の基軸となっていることをも日本国民に告げたのであります。その上、パール博士が裁判終了後も日本を訪ねて自らの信念に基づいて日本人を激励されたことにより、博士はインドと日本の友好のシンポルになっていると讃えられたのです。
 ともすれば日本においては、パール博士の判決に疑間や反対を唱えることをもって、民主主義者だとか平和愛好者だとかいう輩がおります。「パール判事はアジア人として日本に同情したまでのことだ」とか。「今のインド政府はパール博士のことなど全然評価もしていないし、みんな知らないよ」とか。ひどい者になると、「旧軍人共はパール博士を讃えることによって自分達の免罪符にしようとしているのだ」というたぐいです。私共は、当時パール博士が国際法学者で世界的な学者であったことも知りましたし、その高潔で信念の強い法理論者であることも、その研鑽と調査に精魂を傾けた成果としての、歴史研究の精細さと認識の正鵠さも、その判決文の内容で熟知していました。しかし、現在のインド政府のトツプがパール博士をどのように評価し尊敬しているかどうかについては、残念ながら明確に答えられないことに気の重さを感じておりました。
 今回の大統領メッセージと駐日大使のスピーチの内容は、このことについて明白な回答になりましたし、パール判事の信念と学識と勇気とがインド国およびインド国民にとって偉大な功績であり、民族的偉業であったことが証明されたのであります。
 私共にとっては、碑を建てることによって日本人に博士の遺徳を忘れないように呼びかけるだけでなく、ここに改めてパール博士の判決の歴史的意義を世に残すことになったことを慶びと存じております。

(3)ハール博士の長男、プロサント・クマール・パール氏から聴いたパール判事の真相

 碑の除幕式にはインド・カルカッタから博士の長男で現在弁護士を開業しているプロサント・クマール・パール氏夫妻を招きました。夫妻は感涙に咽ぴながら、自らテープを引いて開張した父の若き日の英姿に合掌しました。そしてインドの哲人タゴールの詩を引用して「京都の父のいますこの澄んだ空がアジアの本当の空」だと感謝の辞を述べました。彼は東京への途次、箱根町にあるパール下中記念館に寄り、当建立委員会が寄納した「パール博士の胸像」(碑に嶺め込んだ判事時代の胸像と同じもの)を確認し、東京に数日滞在されました。その間大使館にシン大使を表敬訪問し、巣鴨プリズン跡で遺族と共にお祈りし、靖国神社にも参拝しました。
 合間を縫って私は、かねてから聴きたいと思っていたパール博士の判事就任の事情や、独立したインド政府首脳との関係などについて質問しました。彼は幾つかの資料も見ながら、自分の見た父のこと、父から直接聞いた事実などを話してくれました。これらには歴史の事実として今まで誰も書いていない重大なことが含まれています。

パール博士がインド代表判事に就任の真相

 1946年春、マッカーサー司令部は英国政府を通じて、インド人の判事の選考を求めた。この人選は当時、英連邦下のインドの最高裁でもあったカルカッタ高裁の長官ハロルド・ダービーシャー卿に委ねられ、卿は迷うことなく当時カルカッタ大学の副学長だったラダ・ビノード・パール博士を推薦した。博士はその前カルカッタ高裁の判事を務めておられ、その学者としての見識も人格もよく知るところであった。その上、国際法の学者としてはすでに世界の国際法学会で議長団の一人として活躍しておられた著名人でもあったからである。しかし、当然といえば当然ながら、選考にはもう一つの大きな理由があったのだ。それは博士がそれまでの間、職務と学問に精励していたが、インドの独立運動には加わっていなかったことである。
 1946年4月26日、マッカーサー司令部はすでに発布していたチャーター(極東国際軍事裁判条例)を改訂して、フィリピンとインドから判事を加えることを決めた。すでに任命している連合国九か国の中には、アジアからは中国が一か国だけだったからだ。アジアの多くの国が日本を罪悪視していることを演出しようと考えた司令部は、当然、インド代表判事にも日本を痛めつけるような判決を期待していたのであった。現にフィリピンの判事は司令部の思い通りの役割を果たした。
 パール博士のもとにマッカーサー司令部から任命の電報が届いたのは、裁判開廷の前日の1946年5月2日のことだった。プロサント氏は当日父と別邸に二人でおられたので、その日のことは父の緊張した顔まで覚えていると語った。パール博士がカルカッタを出発したのは翌々日の5月4日だったそうである。

判事団が多数意見への同調を強制

 パール判事の宿舎は帝国ホテル。判事団の事務所は丸ピルにあった。パール判事の初出廷は5月17日である。
この間は裁判の構成や運営について多くの修得が必要だったのであろうが、初出廷までの間に驚くべき事実があったことを、後になってパール博士は息子のプロサントに語り残している。
 それは裁判所側が判事団に指令して予め決めている「多数意見」と称する判決内容への同意を迫ったことである。しかもそのような事実のあったことを極秘にするために、誓約書に署名まで強要されていたということである。しかし、博士は着任早々のこのプレッシャーの苦悩の中にあって、断乎として同調を拒否したのである。それは法学者としての博士のプライドだったとご子息は信じている。法の真理に背く行動は真の学者の信念が許さない。他の判事には国際法学者は一人もなく、パール判事の法理論に立ち向かえなかったから、裁判所側にセンセーションを巻き起こしたことであろう。これによって小数意見をしぷしぷ認めることになるのである。しかし、この段階でパール判事がどのような判決を出すかは、誰もわからなかった。

パール判事の研究調査の徹底ぷり

 パール博士の研鎗と審理に明け暮れた期間は二年六月余。その間の精力的な努力についてはすでに各種の証明がある。他の判事たちは判決の内容が決められているから楽だった。旅行やスポーツを楽しみ多くの招待も付き合っていた。その中で、パール判事のみはそれこそ死にもの狂いの猛研究に励んでいたのである。学者として司令部が決めた多数意見に反対した以上、それだけの真理と事実を反証しようという意地にも燃えていただろうが、検事側の起訴内容のあまりにも事実に反する作為的内容や、低劣な偽善性と偏狭な勝者の復讐行為に、到底許すべからざるものを痛感するようになっていたことは容易に想像できる。この研究調査の結果に基づいて、博士は自信をもって判決文を作成したようである。後のことになるが、1952年、日本を再度訪れた博士が、11月6日広島の高裁でのレセプションの会場で述べた次の言葉がそれを明瞭に示している。
「私は1928年から45年に至る歴史を2年7か月の間、徹底的に調べ上げた。世界中から各方面の重要な資料を集めて研究した。その中には日本人の知らなかったことも沢山ある。それを私は判決文に綴った。満州事変から大東亜戦争までの真実の歴史を、どうか私の判決文を通して十分に研究していただきたい」
 プロサント氏が東京にいる間に東京のインド料理を食べようと、私共は昭和通りにあるインド料理店ナイルに行った。そしてその経営者の話から、パール判事の帝国ホテルでの研究についてのさらに新しい事実を知ることができた。
 この経営者の父A・M・ナイル氏は、京都帝大の土木科に留学し、インド独立の志士ビハリ・ボース氏とも親交のあった人であり、パール判事の日本関係資料の解読に日夜を分かたず協力した人だったのである。A・M・ナイル氏はその回想録(1983年5月20日発行・風濤社)の中で、「裁判の背景となる資料の調査に乗り出した判事は、日本の戦前・戦中の事情をできるだけよく知り、日本の慣習、風俗、国民の心理などについてもできるだけ知識を集めたいと考えていた。日本が宣戦布告に踏み切った背景の調査にはさらに多くの時間を費やした。滞在していた部屋は法律関係の文書や多くの資料でいっぱいだった。仕事以外のことはまるで興味を示さない人だった」と書いている。

祖国インドの独立が後盾となった

 1947年8月15日。パール博士が着任して1年4か月。祖国は念願の独立を達成した。パール博士がインド独立後もインド代表判事の任にあり得たことも興味深い。マッカーサーがその任免の決定権を持っていたからである。一人ぐらい反対意見の判事を入れておいて公平な裁判だったと思わせようという策略であったのかもしれないが、裁判の進め方を見ながら、容易に手の内を見せることなくじっくりと粘り抜いたパール判事の意志の強さがもたらしたものと思われる。法廷と宿舎との往復の合間を縫って、判事が新しい独立インドの駐日代表(連絡事務所長と称していた)のラーマ・ラウ氏や、次の所長のB・N・チャクラバルティ氏と連絡を取り合うようになっていたこともナイル氏が証明している。それにより本国政府の新首脳と意思の疎通ができるようになっていたものと思われる。とにかく他国の判事がマッカーサー司令部の締めつけによる本国政府からのプレッシャーに屈していた時に、パール判事のみは本国政府から精神的なバックアップを受けられたということは、東京裁判の歴史の中で極めて重要な意味を有している。インド新政府は対日関係で独自の政策を進めようとしていたし、独立早々からアメリカのいうなりにはならない意思を固めていたからである。パール判事は新しい祖国のインドのためには慎重に振る舞い、固い決意を秘めながら最終責任を果たそうと努力したのだ。
 他国の判事がいかに本国からのプレッシャーを受けていたかについて、プロサント氏は次のようなエピソードも話してくれた。
「裁判が終わり父が帰国してかなり年月が過ぎてから、オランダのレーリンク博士がカルカッタを訪れた。父はかつての東京の法廷での同僚を喜んで迎え、二人の間の話はなかなか尽きずに1週間も滞在した。レーリンク博士が帰ってから父は、彼がなぜわざわざここまで来たかについて私に話した。彼は判決に当たって父と同じような反対意見を出したかった。しかし、本国政府から極めて強い圧力をかけられ、あの程度のことしか反論できなかった。(レーリンク判事は、少数意見として裁判の非合法性と侵攻戦争は国際法上犯罪ではないと主張し、広田被告の無罪を判決した)。そのことを父に告げたくて立ち寄ったとのことだった」
 プロサント氏は当時父の弁護士事務所の助手をしていたのである。レーリンク博士は刑法の学者で、当時国際法は全く知らなかったと言っているが、後に猛烈に国際法を勉強して東京裁判を徹底的に批判した学者として知られている。

熱狂的な歓迎、パール判事の帰国

 パール判事は判決が行われた後、もちろん刑の執行などに立ち会うこともなく、1948年11月中にカルカッタの自宅に帰った。
 日本国内では占領軍の厳しい言論統制・封鎖によって、裁判の内容については占領政策に有利なことのみが発表され大々的に宣伝させられた。パール判事の反対意見や日本側被告全員無罪の判決など発表されるはずがなかった。しかし、外電ではこの衝撃的な大学者判事の反対意見を大ニュースとして世界に流していたのである。もちろんインドの新聞やラジオでもインド代表パール判事の判決は大々的に報じられ、インドの国民は歓喜の塩禍にあった。植民地支配で圧政を専らにしていた帝国主義の英米が、アジアを解放しようと戦った日本を罰することは、その圧政に苦しんでいたインド人にとって到底許されないことであった。
「父が帰って来た日のカルカッタは凄かったですよ。まるでチャンドラ・ボースが生きて帰って来たみたいだった。いやそれよりも大きな歓声の渦巻だった」と、プロサント氏は目を輝かして話す。この時、彼は二十二歳の法学生である。この証言は正当であろう。「なぜチャンドラ・ポースの名を出したか」と彼は言葉を継いだ。「父は最後まで、チャンドラ・ポースは生きていると言っていたからだ。絶対に死んではいないと信じていたようだ」
 先にも書いたオランダのレーリンク博士は、後年その著『東京裁判とそれ以後』において、パール博士の自宅を訪ね滞在したことを述べ、博士がその地で権威者として歓迎されている状況を目のあたりにしたと書いている。このことなどから、パール博士は判事になる前から独立インドの首脳と政治的盟約があったのではとか、国民軍幹部とも親交があったのではとかの憶測を生んで、そのように書いている学者もいるが、実際の真相は今まで私がプロサント氏から聴いていた通りであると思う。博士はこの判決に法学者としての権威を貫いたことと、祖国インドヘの忠誠によって、それからの真の名声と地位を確立したのである。その後博士は、国際法学者として各国から信頼を受け、国連の国際法委員会の委員長を二度も務めている。

 なお、これらのプロサント氏からの話の内容は初めて世に出るものも含まれているので、これを聴取するに当たっては、通訳の国安輝久氏(三井金属名誉顧問・60期、アジアおよび英国勤務二十余年。「貿易・技術提携・ジョイントベンチャー」関係について正式の通訳のライセンスを有す)を通して記録したことを付記しておきます。
氏は碑建立委員会の委員でもあり、プロサント夫妻の十日間の滞在の間、連日そのお世話役をされました。

(4)刑に赴く前にパール判事の判決文のことを知っていた

 さて最後に、不法な刑により昭和23年12月23日天に昇った七士が、パール判事の判決の内容を弁護士から知らされ、感動に震え心の安らぎを得て逝かれたことを記しておくことにします。
 平成9年12月3日、59期生の全国大会が宮崎市で開催されました。その席で私は久方ぶりで東條大将の三男である東條敏夫君夫妻に会いました。彼は野砲で本科が隣の区隊であり戦後も親しくしていました。パール博士の碑の建立のことやパール博士のご子息が巣鴨を訪ねたことを話しますと「実は父がパール博士についての歌を遺している」と言うではありませんか。そして早速、私の差し出したメモ用紙にすらすらとその歌を書きました。

百年の後の世かとぞ思いしに 今このふみを眼のあたりに見る
                         英 機

おそらくパール判決文の抄訳がコピーされて回し読みでもされたのでありましよう。東京に戻ってから、他の方にもパール判事の判決文を見ての歌が残されていることを知りました。
 板垣征四郎大将は法廷での席がパール判事の真正面でした。パール判事が席に着くとまず被告席に向かって合掌されるので深く感動していたことを、喜久子夫人に語っておられたということです。

ふたとせにあまるさばきの庭のうち このひとふみを見るぞとうとき
すぐれたる人のふみ見て思うかな やみ夜を照らすともしぴのごと
                         征四郎

木村兵太郎大将にもパール判事の判決文を見られての歌があり、箱根のパール・下中記念館にその色紙が保存されています。

闇の世を照らすひかりのふみ仰ぎ こころ安けく逝くぞうれ志き
                         兵太郎
印度判事パール閣下

 なお、木村兵太郎大将のご長男、木村太郎さん(幼48)には、本事業の委員として格別のご尽力をいただいたことを特記しておきます。

副委員長 野地 二見(59期)